グラマティクス英語塾
Grammaticus English Academy
学問と実践は何が違うのか
このコラムでは、「学問としての文法」と、「実践としての文法」を考えていきたいと思います。
区別する必要があるのかと疑問を持たれる方もいるかもしれません。しかし残念なことに、学習者に知識を披露して(最悪の場合はそれが "他の教授者は教えない英文法の本質だ" と主張して)しまっている教授者や、それを教わって成長した気になっている学習者が少なくないのが現実です。
もちろん本来的には、教授者がそんなことをすべきでない、で終わる話です。しかし供給過多である "英語教育" の業界では、商業的な戦略として独自性を出すために、"専門的" なことを言って注目を集めようとする手法は後を断ちません。ゆえに学習者の側も、防御策として、「学問としての文法」と、「実践としての文法」を区別しておくに越したことはありません。
ここでは、①それぞれに求められるものの違い、② 学問の"専門的"な話を英語教育に持ち込むと起こる問題、③学習者に必要な考え方、の3点をお話しします。
例として、以下の2つの文を使って考えていきます。
(1-a) ジョンは英語を話した。 (能動態)
John spoke English. ⭕️自然
(1-b) 英語はジョンによって話された。 (受動態)
English was spoken by John. △不自然
1. 「学問」と「実践」で求められるものの違い
私は大学入学後から院まで言語学を学び、一応全国規模の学会で発表する程度には、学問としての英文法をかじってきました。もちろん、もっと優秀な方は国際学会で発表するのですが、一応は、世間で言われるような”専門的" な文法を扱った経験が、比較的豊富な教授者ではあります。
そういう人間が言うこととして聞いていただきたいのですが、英語を学問の対象として見るか、外国語学習の対象として見るかで、説明するべき範囲は全く異なります。
1-1. 「学問としての文法」の場合
特に人間の自然な発話を説明することを目標にしている言語学の分野では、(1-a)の能動文と、(1-b)の受動文との間にある自然さの差を分析する必要があります。実際に学問の世界では、(非常に大雑把な言い方をすれば) ”受動化は影響を受けるようなものにしか適用されない (affectedness constraint 以下ac) " といった制約を立てて、不自然に思える受動文への説明をしようという流れがありました。先ほどの文で言えば、"English" は "John" によって影響を受けないから不自然になるのだと説明されることになります。しかし当然、学問的にもこの制約だけでは説明できない文も数多く観察されているため、現在では、様々な観点を考慮して、より精密な分析をしようと試みられています。
1-2. 「実践としての文法」の場合
そもそも(1-b) の不自然さを、説明の対象にする必要がないと私は考えます。なぜなら "英語が私によって話される" というのは日本語の発想として不自然で、日本語母語話者が英語を産出しようとする時にほとんど出ないといって良い発想だからです。発想として出ないことを説明するのは、実践においては一般的に不要です。
※ 反対に、学問では"普通は言わないって分かるでしょ" ではなく、"立てたルールに従って生み出された文は、言い訳無用で説明する必要がある" と考えます。
実践で、学問と同じレベルで幅広い文を分析の対象にするのは非効率ですし、貴重な学習時間が奪われるだけです。そのため教える側は、説明の対象を、頻繁に{使う / 使われる} 英文に意図的に絞る必要があると、私は考えています。
2. “専門的” な話は英語教育に必要なのか
中高生の学習者の中には、"ac"のような"専門的"な説明が好きな方もいるかもしれません。「"ac"は受動態の本質を捉えている」と教える教授者も、ひょっとしたらいるかもしれません。しかし、この制約の反例に思えるような文は普通に存在します。教科書の本文や、長文問題にも出てくるような文章として、下記が挙げられます。
(2) あなたが話しているあの建物は、あの丘から見ることができます。
The building that you're talking about can be seen from that hill.
(3) この問題は簡単に理解できます。
This problem can be understood easily.
(4) ここでは英語を話すことができます。
English can be spoken here.
(5) その理論は広く受け入れられています。
The theory is widely accepted.
ここで主語としているものは、行為によって影響を受けているようには見えませんが、この文は全て自然です。故に "ac" は間違った予測を生み出していることになります。
※ 繰り返しになりますが、学問の世界ではこんな単純な議論ではありません。他の制約の存在や、二分法的な話ではなく、もっと段階的な話として理論化がされています。その一部を切り取って話してしまう教授者がいたとしたら、という前提で話しています。
これに対し、それでも ”ac" を信じたい人は、もしかしたら次のように主張するかもしれません。
(6-a) "ある意味では影響を受けていると言える"
(6-b) "全ての英文が説明できるルールなど存在しない"
しかし、こういった主張には注意が必要です。
(6-a) は、定義の中の言葉に解釈の幅を持たせていることになりますが、こうすると、そもそも "影響" という語の意味が拡張されすぎてしまい、学習者が用いる際に、ルールとしての予測力が弱まってしまいます。(こうしたアプローチは通常、学問の世界でも "conceptual stretching (概念的な引き伸ばし) / definitional rescue (定義的な救済)" として批判されます。)
(6-b) についてはその通りですが、説明すべき範囲の中で "間違った予測" を多く生み出すルールを提示していい言い訳はなりません。加えて、そもそも実践としての文法においては、説明をする必要もない“全ての英文“を説明できるルールを作ることを目標にする意味はありません。
教授者にとっては、"専門的”な話をすれば、学習する皆さんの雑学的な興味を引くことができますし、教授者自身を権威的に見せることも出来ます。
しかし、“専門的”な話の中で、英語学習に役立つものの数は限られています。そして、その中から学習者にとって必要なものを選別するのも、教授者の仕事の一つです。これは私も忘れないように、常に自戒しています。
3. 学習者に必要な考え方
中高生の学習者は、こうした、“本質っぽい話” だけでなく、“~で全て説明できる”、“~さえやれば大丈夫” という言葉に誘惑される経験が、英語学習に限らずあるでしょう。しかしそこで、自分の頭が使えるかが問題です。先ほどは私なりの考えを書きましたが、変な話に振り回されないための防御策として、学習者の立場からは、たとえば下記のように考えられることが望ましいです。
・そもそも、"英語は私によって話されている" なんて日本語でも言わないよな。”English is spoken by me. がなぜ言えないのか”っていうのは、そもそも解決すべき問いなのかな?
・”影響を受けないものは受動態の主語にできない”と言われたのに、教科書や長文でそんな文章が出てきた。教えられたルールで、ちゃんと説明できるのかな?
・”ある意味では影響を受けている”って説明されたけど、それだと結局、何でも言えるってことになっちゃわないかな。……あれ? このルール、本当に説明として成立しているのかな?
もちろん、全てを疑えというわけではありません。ただ、極端に単純なルール・多くの教授者が言っているわけではないルールについて は、実際に自分でやってみて検証する必要があるということです。そういう話に基づいて間違った予測をしてしまったり、学習の方法を間違えてしまった時、不利益をこうむるのは学習者です。
4. 私の教え方
私は受動態を教える際に、以下を基本にしています。
"手近な例に対して誤った予測を大量に生み出してしまうようなことは言わない"
"日本語の発想としてそもそも出なさそうな文は説明の対象にしない"
そして、かなり幅広い現象に対応できる大まかな原則に加え、以下を説明項目にしています。
① 日本語との差が大きい表現
② 日本語の発想として出づらいもの
③ 紛らわしいが、文法的に厳密に理解することが、波及的利益を及ぼすもの
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